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「自分の十字架」 マルコによる福音書8章31~9章1節

 宮田教会の創立者の服部団次郎牧師は、旧産炭地筑豊で伝道牧会をされました。始めの3年間は炭鉱労働者として働きながらの伝道でした。エネルギー革命が起き、炭鉱が閉山して行く中で、服部牧師はここにとどまるべきか悩まれた結果、どこにも行くことができず、筑豊にとどまらなければならない人たちがいる、それらの人たちと運命を共にすることを決意されます。そして、服部牧師は、職を失い、行き場もない人たちの人間性を回復し、その自主性を回復するための塔、復権の塔建設をなされます。この国を支えながらも、その労を顧みられることなく、尊い命を失った人たち、絶えず危険にさらされながら働いてきた人たち、また、外国から連れて来られた人たち、それらの一人一人が尊厳を持つ人間として存在したのだということ、そして、それらの人たちの人間性の回復を、復権の塔は私たちに伝えているのです。服部牧師にとって、炭鉱閉山後も筑豊の地にとどまり、炭鉱労働者の人たちと連帯して生きるということは、自分の十字架を背負って生きることだったのではないだろうか、と思わされます。

 イエスさまは、「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(34節)と言われます。安易な救いを求めるのではなく、自らも苦しむ者として、十字架を背負いなさい、と言われるのです。イエスさまに従うということを実際に始めると、自分の十字架を背負って歩こうとすると、それまでに持っていた価値観の転倒が起こるのではないかと思います。恐ろしくて、怖くて、なかなか踏み出せないことも、腹をくくって始めてみると、確かにしんどいし、苦しいけれども、以前とは違う喜び、充実感、といったものを感じることができるのかもしれません。「自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまに従う」ことによって、本当の命を私たちは得ることができるのです。

 しかし、私たちは、それぞれに大なり、小なり自分の苦しみを抱えています。そのような者に隣人の苦しみを抱えることなどできるはずはない、とも思わされます。しかし、私たちの苦しみは、イエスさまが知っていてくださる、イエスさまが共に負ってくださっている苦しみである、ということを知らなければなりません。私たちが自分を捨て、自分の十字架を背負っている先には、より大きな十字架を背負って歩いておられるイエスさまがおられるのです。私たち一人一人置かれた場にあって、自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスさまに従って行く、そのような信仰の歩みができるよう、祈りつつなしていく者でありたいと思います。


   2023年10月15日 聖霊降臨節第21主日 平島禎子牧師


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