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「 静 観 」 イザヤ書7章1~9節

信仰者として生きることは、本来は、喜びの内に生きることだと言えます。ですから、平時においては、いつも喜んで、わくわく、どきどき、うきうきの日々を生きるのです。笛吹けば踊り、わいわいがやがや、生きる喜びに満ち溢れているのが、救われた者、信仰者の在り方と言えるでしょう。

しかし、何か事が起こったとき、つまり有事にあたっては、ハラハラドキドキ、取り乱すのではなく、静かに落ち着いていることが大切です。目の前に起こっている出来事に心を乱されるのではなく、私たちが信じている神さまにこそ、心を向けて冷静に一歩一歩、歩まなければいけません。

今日の聖書は、大変な時にこそ、神さまを信じて、静かにしているべきことを勧めています。背景には、アッシリアの台頭がありました。周辺国はその脅威に備えようとします。そんな中、シリアと北王国イスラエルが同盟を結びます。そして南王国ユダを仲間に引き入れようとしました。このことが、南王国ユダの人々を大きく動揺させます。

神さまはイザヤに告げられます。アハズ王に対して、この危機にあたって恐れずに、落ち着いて静かにしているように。シリアと北王国イスラエルのたくらみは、成就しないからと。

実際、この後、二つの国はアッシリアによって滅ぼされます。アハズは結局、アッシリアに対して貢物を送り生き延びますが、しかし引き換えに、アッシリアの宗教や文化を流入させ、次第に南王国ユダも衰えて行き、次のバビロンの時代に滅ぶことになります。

政治と宗教を一面的に論じることは不可能ですが、ただ、危機に際して、何をもっとも大切にするのか、ということは古今東西、時代を越えて、人類に普遍的な問いを投げかけます。

ユダヤの、この困難に満ちた歴史、その中での宗教の役割と在り方、そんな中、私たちの救い主イエス・キリストは誕生されました。神を信じ、神に依り頼む者への答えとも言えます。

喜びを忘れず、些細なことにも感動し、感謝して、日々の歩みを歩みたいと思います。そして危機の時には、しっかりと神さまを見上げ、落ち着いてすべての事を、信仰をもって静観し、何が神さまの御心であるかを祈り求めながら、信仰者としての歩みをすすめて行きたいと思います。

 

2021年9月26日 聖霊降臨節第19主日礼拝 笹井健匡牧師


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