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「神は愛」  ヨハネの手紙一4章16~21

 敬愛する故三宅八重子姉が召天されて、半年が過ぎました。佐藤眼科にかけられている八重子姉の筆による「愛」の額は、ほんとに文字通り神の「愛」を感じさせてくれます。また、毎週の礼拝と、祈祷会の聖書の当該個所には、必ずこの会堂の献堂式の栞を挟んでいますので、そのたびに、八重子姉を思い出します。
 「神は愛」というのは、キリスト教の根幹をなす信仰です。私たちの救い主、主イエス・キリストによって、そのことが示されました。イエスさまはその宣教を通じてそのことを繰り返し教えられましたが、近くにいた弟子たちでさえ、後に、十字架と復活を経験し、聖霊を受けるまで、そのこと、つまり「神は愛」であることが分かっていなかったのです。そういう意味では、イエスさまの十字架は、「神は愛」であることを、私たち人間に理解させる唯一の方法だったのかも知れません。そうでなければ、イエスさまは偉大な預言者の一人であり、神は今でも遠い、どこか「恐ろしい」存在であったかも知れません。
 特に、ヨハネによる福音書とヨハネの三つの手紙は「愛」を強調します。神が愛であることを弁証し、そしてその神の愛に生かされている私たち人間も、互いに愛し合うことが勧められています。
 今日、今回私が心にかかったのは、18節の「愛には恐れがない。」という言葉です。私たちこの日本列島に住む者は、常に災害と隣り合わせで生きています。そういう意味では、常に「恐れ」や「不安」がある訳です。だからこそ、そうした感情につけ込み、あおる「カルト」宗教がはやるのかも知れません。
 しかし今日の聖書は、「神は愛です。」の後にあるように、愛なる神は、私たちと「ひとつ」「一体」の存在だと言います。神が一心同体のようなかたちで共にいて下さるなら、私たちは何も恐れるものはありません。
 日々の生活の中で、孤独を感じるとき、悲しみに沈むとき、そうしたときこそ私たちは「神は愛」であり、いつも共にいて下さる方であることを思い出しましょう。そして神に祈りましょう。そうすれば、たとえ現実がどんなに大変な状況であろうとも、心の平安を与えられて安らぐことができると思います。
 そして、私たちには信仰の友が与えられています。一人ひとりは弱くとも、様々な欠けを持っていようとも、神は、神の愛を知り、愛し合う姉妹兄弟として信仰の友を与えてくださいました。そのことに感謝し、共に神の愛の中、信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。

2019年1月27日 降誕節第5主日礼拝 笹井健匡牧師

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