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「土の器」  コリントの信徒への手紙二4章7~9節

 1月25日(金)に開催された第2回ナインの会で、倉敷水島教会の小岩牧師から、文語訳聖書が検索できることを教えられました。その後、私の頭に、ずいぶん前に、ある信徒から「千方尽くれど望みを失わず」という聖句が、今の聖書のどこに当たるのか教えてほしいと頼まれ、今日の聖書の個所だとお答えしていたのですが、今回検索して新たなことが分かりました。
 「千方」と私が勝手に思っていたのは、「万策尽きる」、「万事休す」等の影響があったからで、本来は「為ん方」であったということです。行為の「為」です。つまりいろんなことをやってみたけれど、あらゆることを試みたけれど、できることはすべてやったけど、ダメだったということだったのです。人間の努力を、すべての力の限りを尽くしたけれどもダメで、もう何も方策がない、できることがない、それでも望みを失わない、という聖句だったのです。
 その理由は、私たちは一人ひとりみんな、神さまから「宝」をいただいているからなのです。「土の器」というのはほんとにすぐれた表現だと思います。もちろん創世記に神さまが人間を創造されたとき、土からつくられたことが記されていますが、ここではそのことよりもパウロの謙遜な信仰が読み取れるように思います。偉大な伝道を為したパウロでしたが、それはすべて、神の力によって為されたものだったことを「土の器」という言葉は雄弁に語っているように思います。栄光を神に帰す、信仰者の模範があるように思います。
 また、私たちは欠けの多い、土の器だからこそ、その欠けているところから、神さまの宝から発せられる光が、外へと輝き出るのかも知れません。少し前の、5節でパウロは自分のことを「仕える僕」と言っています。神と人とに仕える存在こそが「土の器」である信仰者の姿なのだとあらためて思わされます。
 自分自身が「土の器」であることを自覚し、神の前にへりくだり、人に仕えて生きて行く者でありたいと思います。たとえ人からは理解されなくても、変に思われようとも、ゆがんだ自己宣伝がはびこるこの時代のなかにあって、私たち信仰者は、あくまでも「人の子」としてその生涯を全うされた救い主イエスさまに従って、共に歩んで行く者でありたいと思います。

2019年2月17日 降誕節第8主日礼拝 笹井健匡牧師   

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