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「同じ人間」 使徒言行録14章8~17節

 第一宣教旅行の中のリストラで、パウロが生まれつき足の悪い男性を癒した時、そこにいた人々は驚き、パウロと同行していたバルナバの二人をギリシア神話の神であると言い、二人に雄牛と花輪とを生贄として、二人に捧げようとしました。しかし、パウロはこのことを聞くと、服を裂いて、群衆の中に飛び込み、「わたしもあなたがたと同じ人間にすぎません。」と言ったのです。パウロは自分たちが偶像化されることを拒否し、自分たちは真の生ける神に人々が立ち帰るようにと、福音を告げ知らせているのだと言い、神の恵を述べたのです。

 「信徒の友」11月号の特集は、「部落差別 水平社宣言から100年に」というものです。

部落差別はあってはならないことです。見えにくくなっていますが、今もまだ差別は存在しています。「信徒の友」の「祈り」の欄で、「自分の故郷や大切にしていることを言えない。それは今でも続いています。差別の言葉、尊厳を傷つける言葉がインターネットにあふれています。…」と記されています。この祈りの中で言われているように、自分の出自を言えない人たちがいます。島崎藤村の「破戒」においてもそのことが記されています。主人公の瀬川丑松は父親から自分の出自を必ず隠さなければならない、という強い戒めを受けます。学校の先生になった丑松でしたが、猪子蓮太郎という被差別部落出身の思想家の影響を受け、ものすごい葛藤を持ちます。そして、自分は被差別部落の人間であることを公表し、学校での最後の授業の時、隠していてすまなかった、と土下座をして謝ります。最後の謝るシーンは必要だったのかな、と思うのですが、丑松の心の葛藤とラストには胸が潰れるような思いを持ちました。被差別部落の人間も部落外の人間も「同じ人間」です。しかし、被差別部落と部落外という表現をしなくていい時代に早くなってほしいと思います。

 パウロとバルナバは、自分たちが神にされることを拒み、「同じ人間にすぎません。」と言いました。パウロは衣を裂いて人間以上の扱いをされるのを拒んだのです。私たちは、人間の水平を求めて、あらゆる人たちと「同じ人間である」と言わなければならないと思います。

「服を裂く」というのは「怒り」の表現でもあります。パウロとバルナバは人間以上のものであると言われることに「怒り」を持ち、「わたしたちも、あなたがたと同じ人間にすぎません。」と言ったのです。「怒り」と持つことも大切です。部落差別、人種差別、その他のいかなる差別に対しても、「怒り」の心を持つことが大切であろうと思います。人間と人間は水平な関係です。その水平な関係を分断しようとする力に対しては「怒り」を持って、闘うということをなすべきではないかと思います。

 すべての人たちは、「同じ人間」であるということを心に持ち、また自分も人と比べられるような人間ではなく、「同じ人間」なのだということを心に持ち、誰に対しても「同じ人間」であると思いつつ、神さまの下で等しい存在としての人間の歩みをなしていく者でありたいと思います。

         2022年10月23日 降誕前第9主日 平島禎子牧師


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