私たちが信じる神(旧約新約共通)は、自らを現される神です。アブラハムにも(創世記12:7、17:1、18:1等)、モーセにも(出エジプト3:1~)現れられました。
そしてついに私たちの主イエスが、真の人&キリストとして、この世に現れて下さったのです。さらに十字架の死後、復活の主となって多くの人々に現れ、最後にパウロにも現れられたのです。
パウロは生前のイエスを知りませんでした。それどころかそもそもクリスチャンを迫害していたのです。それが「使徒」とされたのでした。自らが使徒であることを明らかにするため、パウロは自らの宣教している福音は、人からではなく、復活の主から与えられたものだったと主張したのです。使徒言行録9章にはその場面が印象深く描かれています。
今日の聖書でパウロは、その体験を「啓示」と言っています。16節には神がイエス・キリストを示してくださった事が、より大きな視点で述べられています。そして2章2節には、その後、エルサレムへ行ったのも「啓示」によるものだったと言っているのです。
まさにパウロの信仰者としての生涯は、啓示に始まり、啓示によって歩み続け
た生涯だったと言えると思います。あのような「すごい」、神と共なる歩みは、常に啓示によって導かれていたのです。
こう言うと、何か私には関係ない、私には啓示などない、という声が聞こえてきそうです。しかし本当にそうでしょうか。神さまはアブラハム、モーセ、パウロには分かりやすい仕方で「啓示」されましたが、実は私たちにはもっと分からないような仕方で、やんわりと、知らない間に、意識しないように、「啓示」が与えられているのかも知れません。聖書や、讃美歌や、信仰の友の姿や、何気ない日常の一コマの中に、「啓示」が隠されているのかも知れません。
必要な時、神は大胆な「啓示」をなされますが、そうでないとき、神さまは静かに、人知れず、優しく「啓示」を与えていて下さるのかも知れません。それは、それで十分だから、それが一番いいからだと私は思います。
混迷を深める時代のただ中にあって、必要以上に「啓示」を求めたり、あるいは「啓示」を他者に誇示したりすることなく、静かに小さき神の声を、そこにある「啓示」を聞き分け、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。
2023年3月5日 受難節第2主日礼拝 笹井健匡牧師