• 記事検索

RSS

「 啓示 」 ガラテヤの信徒への手紙1章11~12節

 私たちが信じる神(旧約新約共通)は、自らを現される神です。アブラハムにも(創世記12:7、17:1、18:1等)、モーセにも(出エジプト3:1~)現れられました。

 そしてついに私たちの主イエスが、真の人&キリストとして、この世に現れて下さったのです。さらに十字架の死後、復活の主となって多くの人々に現れ、最後にパウロにも現れられたのです。

 パウロは生前のイエスを知りませんでした。それどころかそもそもクリスチャンを迫害していたのです。それが「使徒」とされたのでした。自らが使徒であることを明らかにするため、パウロは自らの宣教している福音は、人からではなく、復活の主から与えられたものだったと主張したのです。使徒言行録9章にはその場面が印象深く描かれています。

 今日の聖書でパウロは、その体験を「啓示」と言っています。16節には神がイエス・キリストを示してくださった事が、より大きな視点で述べられています。そして2章2節には、その後、エルサレムへ行ったのも「啓示」によるものだったと言っているのです。

 まさにパウロの信仰者としての生涯は、啓示に始まり、啓示によって歩み続け

た生涯だったと言えると思います。あのような「すごい」、神と共なる歩みは、常に啓示によって導かれていたのです。

 こう言うと、何か私には関係ない、私には啓示などない、という声が聞こえてきそうです。しかし本当にそうでしょうか。神さまはアブラハム、モーセ、パウロには分かりやすい仕方で「啓示」されましたが、実は私たちにはもっと分からないような仕方で、やんわりと、知らない間に、意識しないように、「啓示」が与えられているのかも知れません。聖書や、讃美歌や、信仰の友の姿や、何気ない日常の一コマの中に、「啓示」が隠されているのかも知れません。

 必要な時、神は大胆な「啓示」をなされますが、そうでないとき、神さまは静かに、人知れず、優しく「啓示」を与えていて下さるのかも知れません。それは、それで十分だから、それが一番いいからだと私は思います。

 混迷を深める時代のただ中にあって、必要以上に「啓示」を求めたり、あるいは「啓示」を他者に誇示したりすることなく、静かに小さき神の声を、そこにある「啓示」を聞き分け、信仰の歩みを進めて行く者でありたいと思います。

 

    2023年3月5日 受難節第2主日礼拝 笹井健匡牧師


コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):