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「受難予告」 ルカによる福音書9章8~27節

 イエスさまは、「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者から排斥され、殺され、三日目には復活することになっている。」(22節)と受難予告をされました。「必ず」という言葉は、神さまの意志の必然と聖書の成就を表しています。「苦しみを受け」、「排斥され(捨てられ)」、「殺され」、「よみがえる」ということは、神さまの意志として「必ず」ご自身の身に起こることである、と言われたのです。「排斥され」と訳されている言葉は、口語訳聖書では「捨てられ」と訳されています。ボンヘッファーは、「苦しみを受けることと捨てられるということは同じではない。苦しみは悲劇的なこととして、なおそれ自身の中に独自の価値と名誉と品位を持つことでもありえよう。イエスはしかし、苦しみの中で捨てられたキリストである。捨てられるということは、苦しみにつけられていた品位や名誉などを奪う。イエスは神の必然によって、苦しみ、捨てられなければならない。」と言っています。イエスさまが経験する受難とは、英雄的な苦しみを伴うものではなく、価値なきものとして捨てられる、すべてがはぎとられる救いようのない苦しみである、と言われているのではないでしょうか。そのような苦しみを受けたにもかかわらずメシアであるというのではなく、そのような苦しみを受けたからこそメシアである、と言えるのだと思います。

 イエスさまは、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負ってわたしに従いなさい。」と言われます。受難予告に続いて、弟子たちの在り方、私たちの在り方が述べられているのです。自分の十字架を背負って、日々、イエスさまについていくようにと言われます。十字架を背負う私はつらいけれども、また、それは日々続くのだけれども、私の前には、イエスさまがおられる、受難されたイエスさまが前にいてくださる。そう思えば、自分の背負っている十字架を受け入れることができるようになるのではないでしょうか。

 受難予告をされたイエスさまの思いを知り、真のメシアとは受難のメシアであり、そのメシアについていくということはどういうことなのかということを胸に刻み、それぞれに自分の十字架を背負って、受難のイエスについていく者でありたいと思います。


 2023年3月12日 受難節第3主日(復活前第4主日) 平島禎子牧師


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