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「祈って待つ」 使徒言行録1章12~14節

 子どもの頃、地面との距離が近かったせいか、蟻の行列を見るのが好きでした。蟻とは意味内容が違いますが、人間も行列をつくります。行列というのは、考えて見ると不思議なものです。みなさんは、どんな経験を持っておられるでしょうか。

 人間の行列の理由というか、本質は「待つ」ということにあります。「待つ」のが得意な人も苦手な人もいると思いますが、わたしはクリスチャンになってから、少しだけ待つのが得意というか、好きになりました。それは信仰者にとって「待つ」とは「祈っている時」でもあるからです。あてもなく、何もなく待つというのは大変しんどいものかも知れません。しかし明確な目的があり、そのことについての確信が与えられている時、その時まで「祈って待つ」のは、苦痛どころか、喜びであったりします。

 今日の聖書には、イエスを天に見送った後の、弟子たちの様子が記されています。復活の主イエスとの、喜びの日々、40日間を終えた後、ペンテコステまでの十日間は、ふつうだったらイエスと再び別れた悲しみに支配されているところでした。しかし彼ら彼女らの心には、イエスから聞いた神の約束がありました。

バプテスマのヨハネの水の洗礼を越える、聖霊による洗礼を授けられる、という約束でした。この、「イエスから聞いた神の約束」という何よりも確かなものを、彼ら彼女らは熱心に祈っていたのです。

 そこには、復活を経験した弟子たち、女性たち、イエスの母・兄弟たちを中心に、120人ほどの人々がいたのです。そして心を合わせて一つになっていたのです。まさに「祈りの集団」でした。真の愛と信仰と希望によって、何ものをも恐れない、約束への確信に満ちた群れになっていたのだと思います。そこについに約束の聖霊という”風”が吹いて、ペンテコステが起こったのです。

 時代や状況は大きく異なりますが、今の私たちにも神の約束は与えられているはずです。2000年という月日を、私たちの前の信仰者たちも、厳しい状況を前にしても、祈って待つことを通して、乗り越えて来たのだと思います。

 今年もペンテコステの出来事が私たちの上に起きるよう、祈って待つ者でありたいと思います。

 

       2022年5月29日 復活節第7主日礼拝 笹井健匡牧師


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