説教題「小さな者として」 マタイによる福音書25章31~40節
アドベントクランツの3本のロウソクに火が灯りました。クリスマスが近づいてきました。トルストイの書いた「靴屋のマルチン」という物語があります。この物語は、今日の聖書に書かれていることから書かれているのではないかと思います。
今日の聖書マタイによる福音書25章35、36節には、正しい人をよしとする理由が記されています。「お前たちは、わたしが飢えていたときに食べさせ、のどが渇いていたときに飲ませ、旅をしていたときに宿を貸し、裸のときに着せ、病気のときに見舞い、牢にいたときに訪ねてくれたからだ。」助けを必要としている人間に対してなされた「愛の業」が記されています。しかし、この言葉を聞いた人たちは、「いつ」それらのことをしたのか、わかりませんでした。するとイエスさまは、「はっきり言っておく。わたしの兄弟である最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」と答えられたのです。
あらゆる貧しい人たち、社会から疎外されている人たち、差別や抑圧の中にある人たちの中にイエスさまはおられるのです。そして、それらの人たちに善い行ないをしたことは、イエスさまにしたことと同じであると言われるのです。しかも、「この最も小さき者の一人に」と言われています。善行をたくさん行なったかどうかということが問題ではなく、たった一人の人に対してでも、真の愛をもって対したかどうかということが、問題になるのです。
ルカによる福音書7章47節には、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさでわかる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」と記されています。今日の聖書の箇所でよしとされた人たちは、イエスさまから多くの罪を赦され、愛されたからこそ、この世の最も小さい者を愛することができたのだと思います。
ミカ書5章1節には、讃美歌267番(讃美歌21)にもあるように、ベツレヘムは小さな町であることが記されています。その小さな町にある小さな馬小屋でイエスさまは「小さな者」としてお生まれになられました。そのイエスさまが、この世での「小さな者」たちに心を寄せられ、自分がその人たちであるのだ、と言われたのです。
イエスさまは「小さな者として」私たちのもとに生まれられました。ここにいる私たち一人一人も小さな者であります。イエスさまは、わたしたちを含める小さい者たちを愛し、赦し、生かしてくださいます。そして、わたしたちに「より小さい者」を愛し、行動するようにと背中を押してくださいます。
わたしたちの日常の中においでになるイエスさまを喜んでお迎えする、そのような心を、このアドベントの時、培っていくものでありたいと思います。
2021年12月12日 アドベントⅢ礼拝(待降節第3、降誕前第2主日) 平島禎子牧師