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「呼びかけに応える」  マタイによる福音書11章16~19節

 今日の聖書は、「笛吹けど踊らず」ということわざとしても有名な箇所です。しかし、よくよく考えてみると、この笛を吹いている子どもたちはだれのことを指しているのでしょうか。
 もともと私は長い間バプテスマのヨハネとイエスさまのことだと思っていました。今もその思いはありますが、今回もうひとつの可能性を思わせられました。ファリサイ派の律法学者、祭司、長老たちという民の指導者たちのことを言われているように思えたのです。
 イエスさまの時代、民衆の心はすでに彼らから離れようとしていたのではないかと思います。宗教がその本質を忘れ、律法の解釈と儀式にのみ重点を置いていたので、人々の心に彼らの言葉は届かなかったのではないかと思います。人々は真の救いを必要としていました。だから彼らの「教え」「言葉」は虚しく響き、とても応答できるものではなかったのだと思います。
そこにまず、ヨハネが荒れ野に現れました。ユダヤ全土から悔い改めの洗礼を受けるため人々が集まって来ました。ヨハネは、メシアの前に現れるエリヤだったと14節に明言されています。先駆者としてメシア登場の道備えをするためでした。そして、イエスさまが登場されました。
民の指導者たちは、自分達の非を認め、改革することもなく、ただ、ヨハネとイエスさまの悪口を言ったのです。荒れ野で禁欲的な生活を送っていたヨハネとは違い、イエスさまは自ら「罪人」「徴税人」はじめ、当時の社会から疎外されていた人々のところに行かれました。「仲間」という批判は、神さまから見れば、誉め言葉です。それくらいイエスさまという方は、社会の不条理に苦しむ人々に寄り添い、共に歩まれたのです。
 二つの解釈のどちらをとっても同じく重要なのは、私たちが信じるイエスさまは何と呼びかけておられるのかということです。復活の主がどこにおられ、そして私たちに何を語りかけておられるのか、そして私たちはどう応えて行くのかが問われているのだと思います。
クリスマスを見据えながら、今、私たちにささやかれているイエスさまの小さな声に耳を傾け、心を開いて、そして自分なりの応答の仕方を考えながら、この時期を歩んで行きたいと思います。

2018年11月11日 降誕前第7主日 笹井健匡牧師

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