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「ついて来なさい」 マルコによる福音書1章16~20節

「ついて来なさい」 マルコによる福音書1章16~20節

キリスト者としての歩みは新興宗教のようにマニュアルがあるわけではありません。信仰者として一人一人が神から召しを受けて、自分でなければできない歩みをなしていかなければなりません。創世記12章1節から4節に記されていますアブラハムの召命のように、神さまに祝福をうけるものの、行く先を知らないで旅立つような人生の歩みをなしていかなければなりません。私たちは日々このような生活をするとこのような世界にたどりつくのですよ、というような教えが書きなどなしに、自分にだけ与えられている信仰の道を行く先を知らずして歩み出していかなければならないのです。

しかし、新約の時代を知っている私たちは人生のどこかで、イエスから「ついて来なさい」という言葉をかけられ、イエスに従う歩みをなしてきたことであろうと思います。私を例にすると、これまで世間体を気にし、みんなと一緒じゃなきゃだめだという思いから、自分個人の在り方を見つめ、イエスにあって自分らしく生きようとする在り方を求める歩みをなすことでした。クリスチャンになり、牧師にまでなるということは、この世の一般の在り方とは異なるものであると思いますが、それがイエスに従う道であると思えば、気になることは何もありません。ただ、私があまりにも世俗的すぎるので、牧師にふさわしくないのかなーという疑問はいつも心にあります。イエスについて行くということは、これまでの古い日常の生き方から新しい生き方、新しい行いへとイエスにあって変えられることではないかと思います。具体的な行動、具体的な始めの一歩を踏み出すことが、18節の「すぐに網をすてて従った」の「すぐに」という言葉にこめられているのではないかと思います。

イエスの後について行くということは、イエスが生きられたようにイエスの背中を見ながら生きていくことです。イエスはガリラヤを愛され、ガリラヤで宣教活動を始められました。私たちにとってのガリラヤとはどこでしょうか。それは、教会の建てられた地である児島であります。(どの教会も建てられた地がガリラヤであると思います。)教会の建てられている地を愛し、私たちの住んでいる地を愛し、一人でも多くの人が救われるように働いて行くというのがイエスに従うということではないかと思います。

約2000年前の昔、ガリラヤで漁師たちがその生活のただ中でイエスから「ついて来なさい」と呼びかけられ、すぐにイエスに従ったように、私たちも教会の建てられている地、自分たちの住んでいる地を愛し、イエスに従う者として生きていく、そのような信仰をもって日常を歩む者でありたいと思います。

2017年2月19日 降誕節第9主日 平島禎子牧師

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