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「 信じる 」 マルコによる福音書9章14~29節

 「信じる」という合唱曲があります。この詞は難解で、私には理解できにくいものでしたが、とても簡単にいうと、自分を信じる、他人を信じる、世界を信じるということが歌われています。自分のことを本当に知っているのは自分自身であり、その本当の自分を信じること、他人の美しい心に触れた時、その人を信じることができるということ、自然の美しさを知った時、世界を信じることができる、というようなことが歌われているように思わされました。私たちは、この三つを信じるということに加えて、もっとも先に来る方、神さまを信じる者であります。私たちは、神を信じ、自分を信じ、他人を信じ、世界を信じて生きていく者です。神さまを「信じる」というのはどういうことなのでしょうか。

 イエスさまが山上で変容され(マルコ9章2~13節)、山を下りてくると弟子たちと律法学者たちが議論をしていました。「霊に取りつかれて、ものが言えず、霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒す」(17、18節)のだということを子どもの父親が言いました。弟子たちはその霊を追い出すことができず、そのことについて律法学者たちと論争をしていたのです。イエスさまは、弟子たちの不信仰を嘆かれます。そして、その子どもを自分のところに連れて来させました。父親は、「もしおできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」とイエスさまに言いました。イエスさまはその懇願に対して、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」と言われました。すると父親は、「信じます。信仰のない私をお助けください。」と言いました。この父親は、「信じます。」と言った後ですぐに「信仰のないわたし」と言っています。矛盾した言葉のように思わされますが、この父親が、「信じる」と言ったことは真実な叫びであったと思います。そして「不信仰」ということもそれまでそうであり、イエスさまに懇願している時もそのような状態であったかもしれません。その「不信仰な私」を助けてください、と子どもの癒しを求めると共に、自分の不信仰をも助けてください、とこの父親は願ったのです。そして、子どもはイエスさまによって癒されました。

神さまを「信じる」ことなくしては、困難なことを乗り切ることはできません。そして、神さまを「信じる」ために欠かせないのは、「祈り」です。熱心に祈ることなくして、信仰は強められないのです。

 「信じる」ということは、ありのままの自分をごまかさずに「信じる」ところから始まるように思います。私が本当に神さまを信じているかどうかということを一番よく知っているのは自分です。その気持ちをごまかすことなく、また、開き直ることなく、「不信仰なわたしをお助けください。」ということが大切なのではないかと思います。

「信じる」ということを「祈り」に支えられながらなしていく、「信じる」心が奇跡を起こすということを心から「信じる」者でありたいと思います。

       2022年7月31日 聖霊降臨節第9主日 平島禎子牧師


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