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「弱さを誇る」 コリントの信徒への手紙二12章1~10節

 「われ弱ければ 矢島楫子伝」という三浦綾子さんの小説を原作とした映画が岡山県でも上映されます。矢島楫子は女子学院というキリスト教主義の学校で最初の院長になった人であり、日本婦人矯風会の初代会頭になった人でした。女子教育、女性の人権向上のために働いた人でした。しかし、そのような人であったとしても、人に言えないような「弱さ」を持った人でした。しかし、その「弱さ」が故にキリスト教へと導かれました。大きな偉業を成し遂げた人であったとしても、その原動力は「弱さ」であったのではないだろうか、と思わされたことでした。

 今日の聖書には、「弱さを誇る」ということが記されています。パウロは、「自分自身については、弱さ以外に誇るつもりはありません。」と言います。そして、思いあがることがないようにと、その身に一つのとげが与えられた、と言うのです。パウロの病はてんかんであったとも言われていますが、本当のところは不明です。パウロはそのとげ、病をサタンから送られてきた使いである、と言っています。そして、その病を自分の身から離れさせてほしいと、三回祈り願いましたが、主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ。」と言われたのです。主の力、主の恵みはパウロの弱さの中でこそ発揮されるのです。パウロは「弱さ」そのものに頼っているのではなく、「キリストの恵みを“働かせる場”としての「弱さ」に頼っているのです。そして、パウロの「弱さ」が故にキリストの力が自分のうちに宿るように、むしろ大いに喜んで自分の「弱さを誇りましょう。」と言うのです。10節には「弱さ」の具体的な状態をあげています。パウロはそのような経験をする時こそ、キリストのために満足している、と言うのです。「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。」としめくくっています。

 私たちは誰しも、「弱さ」を恥じ、強さを求める傾向があるのではないかと思います。私自身も「弱さ」を隠し、強いように振舞おうとしていた時期がありました。その後、精神疾患の病を得て、自分の「弱さ」、だらしなさに気づくようになりました。教会もよく休むようになりました。しかし、去年の春、肺炎で入院したことが、苦痛この上ないものであり、退院してから、自分の「弱さ」を受け入れ、前を向いて歩くことができるようになりました。

 私たちは謙遜になることが必要であると思います。強さを誇ることは誰にでもできることです。しかし、自分の「弱さ」を受け入れ、その「弱さ」故に謙遜になり、イエスさまによって「弱さ」が強さの働く場へと変えられていく、そのことを誇ることはそう簡単にできることではありません。それだからこそ、「弱さを誇る」ことを知り、「弱さを誇る」信仰者でありたいと思います。そして、他者の「弱さ」を思いやることができる「強さ」をも身に着けていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。

 

      2022年8月14日 聖霊降臨節第11主日 平島禎子牧師


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