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「神われらと共に」  マルコによる福音書1章18~25節

 イエスさまの母となるマリアは、大工をしているヨセフと婚約していました。しかし、二人が結婚する前にマリアは聖霊によっておなかに赤ちゃんを宿しました。結婚する前に婚約者以外の男性の子どもを身ごもるということは、当時のユダヤ社会では許されないことであり、「石打ちの刑」に処せられるほどのことでした。そのことをもちろん知っていたヨセフは悩み、苦しみました。そして、マリアとの婚約を解消しようと決心しました。すると、ヨセフの夢に天使が現れ、マリアと結婚するように言われ、マリアは聖霊によって身ごもっていること、生まれてくる子どもに「イエス」と名づけることを告げられました。ヨセフは夢から覚めた後、言われたとおり、マリアと結婚し、生まれてくる子どもにイエスと名づけました。
 今日の聖書の中で「インマヌエル」という言葉が出てきます。これは「神はわれわれと共におられる」という意味であると記されています。(23節) 「われわれ」、「われら」と言い換えてもいいのですが、神さまは特別な人だけの神さまではないということ、一般の人たち、特に、貧しく、苦しみを覚えている人たちと共におられるのだということを示しているのではないかと思います。絶望の中にある人のもとへ、人生をあきらめている人のもとへ、自分を大した人間だと思っていない人のもとへ、すべての人のもとへ、「神さまはあなたがたと共におられるのですよ。」というのが、イエスさまのお誕生のメッセージであると思います。
 先週一週間は、2人の偉大な牧師が召天されました。おひとりは、児島教会の2代目の牧師で、児島教会を18年の長きにわたって牧されました。親しかった教会員の悲しみは深いものでした。私自身も生前にお訪ねしなかったという悔いの念を持ち、悲しみを持ちました。亡くなられた方の姿、形は見えず、触れることもかなわくなりますが、その魂は天へと召され、天上にて神さまとまみえ、やすらぎの時を得つつも、地上にある私たちを見守ってくださっていると信じます。
 神さまは、私たち一人一人と共にいてくださいます。神さまは私たちを見捨てず、私たちと共にいて、励まし、慰めてくださり、私たちにとって、一番いいところへと導いてくださいます。
 今日が2018年最後の礼拝となりました。神さまは今年も私たちと共にいて、その歩みを導いてくださいました。「神われらと共に」という言葉を自らの内側で叫び、来たる新しい年2019年、私たち、一人一人が神さまと共に歩んでいくのだという自覚を強くするものでありたいと思います。

2018年12月30日 降誕節第1主日礼拝 平島禎子牧師

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