• 記事検索

RSS

「エッサイの根」  イザヤ書11章1~5節

 アドベント第2主日を迎えました。みなさんは、この一週どのように過ごされたでしょうか。
 先週に引き続きイザヤ書を取り上げました。アドベントの時、イザヤ書がよく取り上げられますが、特に、7章、9章、11章はひとつのセットのようにも読める個所です。アドベントの3回の日曜日の礼拝で取り上げたり、アドベント祈祷会で取り上げることも多い個所です。
 今日の聖書は主イエスの誕生のユニークな表現として、後に、カトリック教会で多くの作品に描かれるようになったようです。
 エッサイが最初に言及されるのは、ルツ記4章17節、22節です。マタイとルカ福音書の系図にもありますが、エッサイはルツの孫ということになります。
その株から、つまりエッサイの子である、あのダビデの子孫からまことの「王」が誕生する、とイザヤは預言したのです。背景には南王国ユダの危機があったと思われます。
 10章の33節、34節を見るとそびえ立つ高い木、レバノン杉の大木でさえ、切り倒される、とあります。しかし、切り倒されたように見える切り株から、新しい芽が萌えいで、その根から若枝、つまり新しい王が誕生する、というのです。
神は決して自分たちを見捨てられず、必ずや救いの業を起こしてくださる、という固い信仰がここにはあるように思います。表面上は「無」に見えても、地下では、「根」は生き続け、やがて時が来たら、時が満ちたら「救い主」が誕生するという絶対にあきらめない信仰なのです。
 2節に主の霊がいろいろと記されています。特に今回はふたつの言葉に心が留まりました。ひとつは「識別」の霊です。もうひとつは「思慮」の霊です。この「思慮」は口語訳では「深慮」です。物事を信仰をもって識別し、そして、深い配慮ができる、イエスさまはそういう方なのです。
 私たちは、つい目先のことに右往左往する弱さを持っています。特に私自身は、せっかち、というか「気がせく」性格を持っています。
 「待降節」という名の通り、私たちは神さまが世に送ってくださるイエスさまを、信仰をもって待たなければいけません。クリスマスまでの時、いにしえの預言者たちが気の遠くなるような年月を「根」を信じて待ったように、私たちも神さまの最高のプレゼントを待ち望みつつ歩みましょう。

2018年12月9日 アドベントⅡ(待降節第2、降誕前第3主日)礼拝
                            笹井健匡牧師

コメント
name.. :記憶
e-mail..
url..

画像認証
画像認証(表示されている文字列を入力してください):