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「栄光から栄光へ」 コリント信徒への手紙3章16~18節

 今日は、もともとは、平島先生の説教でありまして、この聖書の個所も、平島先生にとって、特別な個所であろう、と思っております。逆の言い方をすれば、私にはあまり・・・、というより、かなり不得手なところでありまして、交替することが決まったとき、平島先生が私に、聖書の個所も説教題も変更したら、と言いました。讃美歌に合わせて、という本来とは逆の方法で、あるいは奏楽者に謝罪して、曲の変更をお願いして、することもできました。大変迷いましたが、このところから、そのまま、私なりに説教させていただくことにしました。
 3章全体にわたって書かれていることは、古い契約と新しい契約の違いであります。多くの説教者は、前半の1~6節を取り上げ、最後の「文字は殺しますが、霊は生かします。」を中心に、説教を組み立てます。
 7節以降の後半で書かれているのは、ひと言で言えば「栄光」についてです。つまり、古い契約(14節)の栄光はもはや失われ、新しい契約の栄光の時代になった、ということです。
 16節の冒頭の「しかし」が受けているのは、直前の15節の、古い契約を、いくら熱心に読んで、努力しても、そこには覆いがかかっている、ということです。そして「主」の方に向き直れば覆いは取り去られ、自由を得るというのです。ここには、三位一体の信仰が言い表されています。
 「主」というと、ふつう、主イエス・キリスト、つまりイエスさまのことを指します。「主の祈り」はその代表です。また、旧約以来、「主なる神」ということばで「ヤハウェ」の神、つまり神さまのことを「主」と呼びならわしています。
 ここでパウロが聖霊をあえて「主」と呼んだのは、非常にめずらしい表現とも聞こえますが、しかし、三位一体の信仰からするならば、現実に私たちを助け、導き、力を与えてくださるお方は「聖霊」です。イエスさまも、「助け主」を送る約束をしてくださっています。そういう意味では、聖霊を「主」と呼ぶことも「あり」、な訳です。たぶん、これは私の推測ですが、コリント一で明らかなように、教会が内部分裂していた、そして中には「わたしはパウロに」「わたしはアポロに」・・・と主張するものがいて、「わたしはキリストに」という者までいたという事情がは愛系にあるのかもしれません。
 教会をひとつにして下さるのは聖霊です。そしてその聖霊の働きによって、わたしたちはイエスさまと同じ栄光の姿へと作り変えられて行くのです。克己の歩みを通して、栄光から栄光へと変えられていく者でありたいと思います。

2018年3月18日 受難節第5主日礼拝 笹井健匡牧師

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