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 今年も受難節を迎えました。レントの時、克己の時、自らの弱さに打ち勝つことができるように、今日は有名な「荒れ野の誘惑」から学びたいと思います。

 第1の誘惑は、空腹の状態、しかも40日間というものすごい空腹を覚えておられるイエスさまに、石をパンに変えよ、というものでした。イエスさまはそれに対して、人は神のみ言葉によって生きるのだ、と答えられました。食欲という根源的な欲求を用いての誘惑でした。しかし、「パン」というのは、当時は大変貴重なもの、そして富の象徴のようなものでした。そう考えるとこの悪魔の誘惑は、神か富か、の誘惑ととらえることもできます。イエスさまは、富の誘惑に打ち勝ち、神の言葉を、そしてそれを宣べ伝えることを選ばれたのだと読めます。

 第2の誘惑は、これから宣教を始められるイエスさまに対して、神を試せ、というものでした。つまり、本当におまえの宣教を神は守り導いてくださるのか、大丈夫なのか、始める前に、しっかりと確かめておいたほうがいいぞ、と悪魔はささやいたのだと思います。しかも聖書の言葉を引用して。イエスさまは同じく聖書の言葉によって、見事に反論されました。確たるしるしを得てから、信じて行動するのが信仰ではなく、信仰とはまだ見ぬことを、先にみ言葉を信じてから行動していくこと、そうして歩んで行く時、神は必要なしるし、奇跡を起こして下さる、と言われたのだと思います。

 第3の誘惑は、人々に教えを宣べ伝えたいなら、ローマ皇帝のように、いやそれ以上の、世界の王になったらどうだ、というものでした。すべてはおまえのものなのだから、すべての民に命令して、教えればいい、と。悪魔を拝むというのは、悪魔に魂を売ること、権力という悪魔的な力にひれ伏すことです。主なる神にのみ仕えることをイエスさまは宣言されました。それは権力による宣教ではなく、愛によって、仕えていくことによって、まことの神のみ言葉、み心を、自ら体現していく宣教でした。行く先には、この世の権力が暴力的な猛威をふるう、十字架が待ち受けていました。

 私たちの主、イエスさまは、このようにして、最初の誘惑に打ち勝たれました。そしてその後の宣教活動によって、神の、私たち人間に対する愛をこれ以上なく表してくださいました。

 私たちも、この世で様々な誘惑があります。このレントの時、少しであっても、どんなに小さくても、自らの弱さに打ち勝つ克己の歩みを、十字架の主イエスに従って続けて行く者でありたいと思います。

 2024年2月18日 受難節第1(復活前第6)主日礼拝 笹井健匡牧師


 2月11日は、キリスト教界では、「信教の自由を守る日」となっています。戦前戦中に、日本社会が天皇制の下で、国民が言論、思想、信教の自由を奪われていったという事実に基づき制定されたのです。

 戦時中、信仰を持ち、それを貫いた故に投獄されたキリスト者たちも大勢いました。1942年6月26日には、ホーリネス系の牧師たちが逮捕され、1943年4月にも第二次検挙が行なわれました。これらの人たちは、治安維持法違反の罪で逮捕されたのです。治安維持法とは、「国体(皇室)や私有財産を否定する運動を取り締まることを目的として制定された法律」です。「国体」を否定するということは、天皇が神であるということを否定することであり、検挙されたキリスト者たちは、天皇は人間であり、キリスト教の神のみを唯一の神とする信仰を固く守った人たちであったと言えると思います。

 今日の聖書では、聖霊降臨によって教会が誕生したばかりの時の出来事が記されています。ペトロは神殿において力強く説教をなしました。(3・1~26)大勢の人たちが、ペトロの説教に引きつけられました。そこに、祭司、神殿守衛長、サドカイ派の人たちが近づいてきました。彼らにとってペトロの説教は、彼らの立場を揺るがす、政治的にも危険なものとして捉えられたのです。これらの人たちは、二人を捕らえて、牢に入れました。翌日ペトロとヨハネは最高法院の中心に立たされ、議員たちから尋問を受けました。ペトロはイエス・キリストの名によって足の不自由な男を癒したことを語り、「ほかの誰によっても救いは得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないからです。」(12節)と言ったのです。ペトロとヨハネの大胆な態度を見て、議員たちは驚きました。ペトロとヨハネは最高法院の場に立たされても臆することなく、何者をも恐れず自由に大胆に話すことができたのです。議員たちは、この二人の処遇に困り果て、最終的に、イエスの名によって誰にも話したり、教えたりしないようにと命じたのです。しかし、ペトロとヨハネは、「神に従わないであなたがたに従うことが、神の前に正しいかどうか、考えてください。わたしたちは、見たことや聞いたことを話さないではいられないのです。」(19、20節)と答えました。つまり、ペトロとヨハネは人間にではなく、神に従うと断言したのです。

 新しい戦前といわれている今の時代、再び戦争へと突き進もうとする時、思想、信条、信教の自由は奪われていくのではないかと思います。治安維持法という法律の下に多くの人が弾圧されたという事実を決して忘れてはならないし、再び同じことが起きないように「見張り」の役目をすることが、現代を生きる私たちの神に従うという姿勢ではないでしょうか。

イエスさまによって救われた者として、「神に従う」歩みをなしていくことができるよう、祈る者でありたいと思います。

2024年2月11日 信教の自由を守る日 降誕節第7主日 平島禎子牧師


 教会に通い始めた頃、その教会にはベテスダ会というボランティアの会がありました。私が信仰の母と思っているK姉が始められた会です。いろんなことを学ばせていただきましたが、何より、教会につながり続けた大きな要因となった会でした。やがて共同作業所ベテスダの家となり、現在はデイサービスセンター・ベテスダの家となり、第2の施設イマジンもできて、総勢100名を越える大きな存在となりました。

 今日の聖書は、今治教会「伝道師」となる時、母教会でした決別説教の聖書の個所です。ヨハネ福音書では、イエスさまはすでに2章で「宮きよめ」をされています。そこでエルサレム神殿の様子を目の当たりにされたことだと思います。今回はすぐに神殿の北側にあるべトザタ(ベテスダ)の池に行かれました。祭りで賑わう神殿と対照的に、ひっそりとただ「癒し」を待つ多くの人々がいた池、イエスさまの足は、池の方に向かったのです。

 38年も病気で苦しんでいる人がいました。イエスさまはこの人に「起きよ」と言われました。(エゲイレ:ギリシャ語エゲイローの命令形)この人の病状ははっきりとは分かりません。異常な長期間であること、足が相当弱っていること以外は想像するしかないのですが、14節のイエスさまの言葉からは、何か容易ならざる事情があるようにも思えます。彼は本当に良くなりたいと思っていたのでしょうか。

 起きよ、という言葉は、ただ単に横たわっている状態から、起き上がるということだけではなく、目を覚ませ、甦れ、心を高く上げよ、人間としての誇りを取り戻せ、もう一度やり直せ、生き直せ、というような心を奮い立たせる言葉なのだと思います。彼は、病が癒されただけではなく、その心が、魂が生き返ったのだと思います。

 床には、それまでの、ダメな自分のみじめなすべてが染み込んでいます。それをどっかにほったらかして、なかったことにして、忘れて生きるのではなく、それを自ら担いで、それと共に生きて行くようにと、イエスさまは言われました。

 私たちももう一度、イエスさまの言葉を聞いて起き上がり、自らの重い荷を一緒に担って下さる方と共に、生まれ変わった新しい人生を生きて行く者でありたいと思います。

 

   2024年2月4日 降誕節第6主日礼拝 笹井健匡牧師


 ヨハネによる福音書8章32節には、「あなたたちは真理を知り、真理はあなたたちを自由にする。」と記されています。ヨハネによる福音書14章6節を見ますと、「わたしは道であり、真理であり、命である。」というイエスさまの言葉が記されています。イエスさまの存在そのものが真理なのです。イエスさまに聴くということによって、私たちは真理を知り、その真理によって、真に自由な者へとさせられていくのです。

 しかし、イエスさまが、「真理はあなたたちを自由にする。」と言われたことに対して、ユダヤ人たちは、「わたしたちはアブラハムの子です。だれかの奴隷になったことはありません。『あなたたちは自由になる』とどうして言われるのですか。」(33節)と言いました。彼らは、自分たちの祖先には、信仰によって神により義とされたアブラハムがいる、我らアブラハムの子孫こそ自由な民なのだ、という誇りを持っていただけに、今さらイエスさまから自由にしてもらう必要などない、と言ったのです。それに対してイエスさまは、「罪を犯す者は罪の奴隷である。」と言われました。罪を犯すことのない人間はいません。罪に隷属している私たちを自由にしてくださるのがイエスさまなのです。「もし子があなたたちを自由にすれば、あなたたちは本当に自由になる。」(36節)とイエスさまは言われます。罪の奴隷である人間をイエスさまは自由にしてくださるのです。そのイエスさまが真理そのものであり、真理が私たちを自由にしてくれるのです。

 私たちを自由にするものは、イエスさまの言葉です。イエスさまを信じることは、知的に知るということとは違います。「わたしの言葉にとどまるならば」と31節に記されています。「とどまる」と言う言葉はギリシア語で「メノー」という言葉で、「離れない」という意味があるそうです。イエスさまの言葉から離れずに、イエスさまにとどまるということが、イエスさまを信じることです。イエスさまから離れない、イエスさまの懐の中にいる、そのような生き方をすることが大切なのではないかと思います。自分で自分を自由にすることはできません。イエスさまの言葉にとどまることだけが私たちを自由にすることができるのです。

 私たちは、イエスさまにつながることによって、真の自由を与えられた存在です。その与えられた自由によって、今度は、人々を自由にする真理であるイエスさまのことを伝えていく者でありたいと思います。現在、地震で被災され不自由な生活を強いられている人たち、戦禍の中にある人たち、様々な差別や抑圧の下にあり、人権を蹂躙されている人たち、また、病の中にある人たち、そのような人たちに真の自由が訪れるように、祈り、行っていく者でありたいと思います。

    2024年1月28日 降誕節第5主日 平島禎子牧師


 CSで子どもたちに話をするとき、どういうことを話すか、なかなか苦労しますが、聖書の登場人物が個性的なときは、たいへんやりやすかった訳です。旧約ではノア、ヨナとか、新約ではペトロ、ザアカイなどがいますが、今日の聖書のニコデモもわりと話しやすいところです。イエスさまの「新たに生まれなければ」(3節)という言葉に、ニコデモは「年をとった者が‥‥もう一度母親の胎内に入って」(4節)という、とんちんかんな応答をしています。

イエスさまとニコデモとの嚙み合わない会話を子どもたちに分かりやすく、おもしろく語れば良かった訳ですが、大人になって、ニコデモは、本当にそれだけなのかと、自分が年をとって、あらためて思います。

ニコデモはファリサイ派の律法学者で(1,10節)、最高法院の議員(1節)でした。そしておそらくかなりの高齢でした。社会的地位もあり、人々からの信頼も厚かったであろうそれなりの人物が、夜こっそりと、何の肩書もない、田舎出身のイエスさまのところにやってきたのです。しかも2節の挨拶からは、謙遜な、心からイエスさまを尊敬している気持ちが伝わってきます。

しかしイエスさまは人の心をお見通しです(2:25)。3節の答えは「神の国を見たい」というニコデモの本心、渇望をついたものでした。いきなり核心をつかれたニコデモは動揺し、もしかしたら少し意地悪に、4節のとんちんかんな応答をしたのかも知れません。

彼は、おそらく幼いころから熱心に律法を学び、まじめに実践し、「正しき」人として生きて来ていました。ローマの支配、つまり人間の支配が終わり、神の国、つまり神の支配が実現するのを心待ちにして、熱心に祈っていたのではないかと思います。彼が期待したのは、律法を熱心に守る、その上に何をすれば神の国をみることができるのか、という問いへの答えでした。しかしイエスさまが言われたのは、水と霊、つまり悔い改めて、聖霊によって新しい人になることが、神の国に「入る」ことだというものです。

律法順守、厳格な実践の延長上に、神の国が実現するのではなく、神を信じ、神からの風、聖霊を受けて新しい人として誕生する、そのことによって神の支配のなかに生きていくことができる、そしてそれは地上のあらゆるもの、絶対と思えるあのローマをもはるかに凌駕したものなのだから、と言われたのです。

 神のもとから吹いて来る風を受けて、また新しく誕生し、この一年を主と共に神の支配の中、生きていく者でありたいと思います。

  2024年1月21日 降誕節第4主日礼拝 笹井健匡牧師


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