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「ハーモニー」 詩編100編

「ハーモニー」 詩編100篇

 今日の聖書は、今治教会時代3年間、伊予小松教会時代5年間、合計8年間、礼拝の招きの言葉、招詞として、くり返し唱えた短文のもとになっている箇所です。なので、あまりにも当たり前すぎるというか、説教で取り上げることはなかったのですが、秋の高い空を見ていると、ふとこの詩編が浮かびました。
 この100篇は、95篇から続く、礼拝に向かうイスラエルの民たちの賛歌の締めくくりの部分です。神殿に向かう人々が次第に高揚していくさまが、よくうかがえる6つの詩編になっています。今日の100篇だけを読んでいると、アカペラのように感じますが、95篇、そして98篇を読めば、楽器に合わせて歌ってることがよくわかります。この連続する6つの詩編は、おそらくバビロン捕囚から解放され、ふるさとで、再建された神殿に行く喜びに満たされた詩編です。
 特に、今日の100篇では、神殿にやって来た人々が、おそらく隊列を組み、楽の音に合わせて、大声で歌い、しかも神殿でまってた人々と、入場してきた人々が交唱する、たいへんな熱気が伝わって来るように思います。それほど大きな喜びをもって、イスラエルの民は礼拝に出席していたのです。
 私たちは現在、交読詩編として、詩編を「読む」ので、そのダイナミックさがイマイチ伝わりにくいのですが、これを互いに歌い交わすなら、それはそれは大いなる大合唱となったことでしょう。人々の熱狂も頂点に達しました。
 そして、これは私の考えですが、そのとき神殿から食物が振る舞われた、と言われています。つまり、ささげものや、献金をたずさえてやって来たイスラエルの民に、今度は、神殿のほうから食物が与えられた、というわけです。そのことから、わたしには、日本の「餅投げ」や「豆まき」のような光景が浮かびます。もしかしたら、あのような感じで人々に食物が配られたかも知れません。とにかく、これは大いなる「祭り」のような礼拝だったのです。
 日本の礼拝は、世界一静かであると言われます。それはそれで日本人に合っているのかも知れませんし、良い点も多くあると思います。しかし讃美歌を歌う時くらいは、こころを高揚させていものだと思わされます。神さまを礼拝するのは、神さまを「喜ぶ」ことでもあるわけですから。
 私たちの心が神さまに向って真に一つになるとき、それは美しいハーモニーとなって、響き渡るのだと思います。互いの信仰の歌を聞き合いながら、美しいハーモニーが、集う者の心を癒し、神さまに喜ばれるものとなるように歩んで行きたいと思います。

2016年10月9日 聖霊降臨節第22主日 笹井健匡牧師

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