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「神の寛容」 マタイによる福音書5章43~48節

 2020年も早いもので、もうすぐ半年になります。6カ月もの期間になるのですが、そしてそれなりにいろいろなことがあったはずですが、どうしても新型コロナウィルス一色になってしまった感があります。
 今日の聖書は、イエスさまの愛の教えの中でも有名な、敵を愛する、というところです。しかし今日は、その中に込められた、埋められた、イエスさまは、神さまのことをどういうふうにとらえておられたか、にフォーカスをあてて、共に考えてみたいと思います。
 結論から先に言えば、イエスさまは神さまのことを、とんでもなく「寛容」な方だと考えておられたのだと思います。それは神さまの無限の愛から出てくる、無限の寛容と言ってもいいのかも知れません。イエスさまの、ご自身の生涯をかけて伝えられた神さまの姿、それは無償の愛の存在でした。
 イエスさま自身もマルコ9章38節以下で、非常に寛容な考えを表明されています。だからこそ、敵対関係にあったファリサイ派の学者たちが、「あなたはだれをもはばからない方」と表現しているのだと思います。(マルコ12:14)
 イスラエルの民は「律法」を守ることによって、つまり神さまとの約束を守ることによって救われる、という考えをもっていました。しかしそれが行き過ぎるといろいろな事情で律法を守れない人を裁くことになり、「律法を守る人」と「律法を守らない人」という、人を2分する考えになってしまいます。イエスさまは当時人々を教えていたファリサイ派の律法学者たちの、そういう考えを変革されようとしたのだと思います。
 神は、まるで人間の価値基準で、人間側からの判断によって規定されるような、そんな小さな方ではありません。どんな人であろうと、親が子を愛する、それをはるかに超えた大きな愛で、私たち一人ひとりを愛しておられることを、つまり神は愛であること、ゆえに無限に寛容であることを教えようとされたのではないかと思います。だいたい、私たち有限な人間には神の業を初めから終わりまで見極めることなど出来ないのです。太陽も雨も、神の大いなる業の一つであり、そこには、その恩恵を受けるには、何の区別をも神さまはされていないのです。
 これから、のことはなかなか分かりませんが、しかしこれまでの神の業、その愛を知らされた者として、大いなる神の寛容の中で、生き生きと生きて行く者でありたいと思います。

           020年6月21日 聖霊降臨節第4主日礼拝 笹井健匡牧師

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