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「愛がなければ」 コリントの信徒への手紙13章1~13節

 昨年に引き続き、こうしてご遺族の皆さんと共に、また天にある信仰の先達の方々と共に召天者記念礼拝をささげることができることを心から感謝します。

 今年は、4月27日に田中稔子姉が召天され、天上の仲間に加えられました。また、5年、30年、60年等の節目を迎えられた姉妹、兄弟方もおられます。天上はいよいよにぎやかになり、その分地上は寂しくなりましたが、今日は多くのご遺族の皆さんと共に礼拝をささげることができ、重ねて感謝いたします。

 故田中稔子姉のことを、そして多くの召天者の方々のことをいろいろと思いめぐらせていると、「神は愛です。」という言葉が思い浮かびました。さらに続けていると「最高の道」は、「愛である。」と導かれました。

 これは児島教会が大切にしてきたものです。旧讃美歌87番には、いわゆる「神は愛なり」の讃美歌がありました。以前は多くの教会でよく歌われていたと思います。

 ご存知のように、今私たちは、2000年前のイエスさまの時代とはまた違った意味で、大変な時代を生きています。特に日本のクリスチャンにとっては、戦後のキリスト教ブームはとっくに過ぎ去り、旧統一教会のカルトの問題がクローズアップされ、イスラエルとパレスチナが戦争状態になり、否が応でも宗教、信仰についてあらためて考えさせられます。

 イエスさまはおもにファリサイ派の律法学者たちと論争されたことが福音書に記されています。ファリサイ派の人々は熱心な信仰をもっていました。しかしその厳格な教条主義というか、信仰至上主義的なあり方は、人々を救うどころか、人々を断罪し、苦しめていました。愛のない姿です。イエスさまがその尊い命までささげて教えようとされたのは、愛のない信仰がいかに無益どころか、有害であるかということ、そして「神は愛である」ことだったと思います。

 パウロは、コリントの教会に、ファリサイ派的危険(信仰に熱心のあまり)を見たのかも知れません。だからこそ「愛がなければ」を3度も繰り返し、完全な信仰も愛なしには無に等しいと教えたのだと思います。この危険は現代の教会も例外ではありません。

 聖徒の日を「愛」を思い起こす日にしたいと思います。先達たちからいただいた数えきれない愛を、そして神の愛、イエスさまの愛を思い起こし、愛に満ち溢れた信仰者として、またあらたに歩み出していく者でありたいと思います。

 

  2023年11月5日 聖徒の日・召天者記念礼拝 笹井健匡牧師


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