イエスさまのされたたとえ話とは、当時の民衆がよく知っている、農業や日常の労働といったものから多くの題材を得ています。マルコによる福音書の4章には、「種」をモチーフにしたたとえ話が3つ記されています。民衆にとって「種を蒔く」ということは、自分の日常の中にある身近なことであっただろうと思います。イエスさまのたとえ話を聞くことによって、神さまは遠いところにおられる方ではなく、自分たちの生活の中に、近くにおられる方であるということを感じることができたのではないかと思います。
イエスさまの時代の「種を蒔く人」は、できるだけ広く種が蒔かれるように腕を広げて、種を蒔いたそうです。ミレーの力強い「種まく人」の絵が思い出されます。日本では、先に土地を耕して種を蒔くということをすると思いますが、当時のパレスチナでは、種を蒔いた後に鋤をいれて土を起こすことが当たり前のことでした。道端に落ちた種、石だらけの土に落ちた種、茨の中に落ちた種は、それぞれ、鳥に食べられたり、根がはらなかったり、茨にふさがれたりで、実を結ぶことはできませんでした。「種を蒔く人」からすると、これらの種が実を結ばなかったことは、不成功であり、挫折でもあったことだと思います。またそれぞれの地に蒔かれた種は、大きく成長する可能性を持ちながらも、様々な障害のために実を結ぶことができずに無念だったのではないかと思います。しかし、良い土地に落ちた種は、芽生え、育って、実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になったというのです。良い土地に落ちた種は、自分の可能性を十分に伸ばし、実を実らせることができたのです。無念の思いで実を結ぶことのできなかった他の種の分も頑張って大きくなって、その他の種の分も実を結んだのではないかと思います。
自分を種にたとえると、どの土地に落ちたのだろうか、と思わされるのではないでしょうか。たとえ、悪い土地に落ちたとしても、その土地が良い土地に変えられるかもしれない、という可能性はあるかもしれません。たとえ茨の地に落ちた種であっても、石地に落ちた種であっても、種を蒔く人、農夫が、懸命に耕し、土壌を変えていくということをなしていくならば、その状態は変えられるかもしれません。
また、種を御言葉として捉えるならば、御言葉の種を蒔くということを私たちはしていかなければなりません。今年もアドベントの時期に、クリスマスカードを近所の家々に配ることになりました。クリスマスカードという種を蒔くということをしていきたいと思います。
蒔いた種が、道に落ちるかもしれない、石地に落ちるかもしれない、茨の中に落ちるかもしれない、そのようなあきらめはありますが、それでも、種を蒔き続け、種が良い土地に落ちることを信じて、皆で神さまからいただいた信仰の種を蒔いていく者でありたいと思います。
2023年11月26日 降誕前第5主日 平島禎子牧師