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 アドベント・クランツのロウソクに、二番目の灯がともりました。世は暗闇の様相を呈していますが、クリスマスに向かって灯りは大きくなります。闇が深くなればなるほど、その中で灯りは強く輝くのです。

 イエスさまより約700年前に、預言者イザヤは活動しました。イエスさまの時代は、ローマの支配に苦しんでいましたが、イザヤの時代はアッシリアの恐怖が最大の課題でした。アッシリアは、ゼブルン、ナフタリ、つまりガリラヤから侵略を始め、BC722年に都サマリアが陥落、北王国イスラエルは滅亡します。

 南王国ユダの預言者イザヤは、王を叱咤激励し、この世の力ではなく、主なる神、ヤハウェに信頼し、落ち着くように諭しました。そんなイザヤが今日の個所では、後の日には、ガリラヤは栄光を受け、闇の中に光が輝く、と預言したのです。イザヤの念頭には、新しい王、次世代への期待があったのかも知れません。

 マタイはこの聖句(8:23b~9:1)を、イエスさまが宣教を開始された場面に置きました(マタイ4:15~16)。異邦人との混住、異邦文化の混在がすすみ、ヤハウェ信仰が脅かされている、その辺境の異邦人の地ガリラヤからイエスさまは登場されたのです。

 イザヤ書7章で預言されたインマヌエル預言は、この9章で、共におられる新しい王として実現すると預言されました。

 現代も違う意味で闇が深くなっている時代なのかも知れません。しかし闇が深くなればなるほど、希望の光は、その輝きを増すのです。

 アドベントのこの時、昼間の時間が短くなり、夜の時間が長くなって行きます。私たちは、この時こそ、真の、闇の中の光である主イエスをしっかりと見つめて、その光で自らの内にある闇、そして外にある闇をしっかりと照らしながら、祈りを熱くしてクリスマスまでの時を歩んで行きたいと思います。 

 

2023年12月10日 アドベントⅡ(降誕前第3主日)礼拝 笹井健匡牧師


 今年もアドベントを迎えました。アドベント・クランツのロウソクに、一番目の灯がともりました。世は暗闇の様相を呈していますが、間もなく降誕される主イエスの暖かい希望の灯りを、いつも以上に大切にしたいと思います。

イエスさまの宣教活動の前には、先駆者として、洗礼者ヨハネが登場します。ヨハネは、当時のユダヤで大きな存在でした。イエスさまの、弟子たちへの問い、「わたしを何者だと言うのか」という、いわゆるペトロの信仰告白の場面での問いが、今日の聖書では、ユダヤ当局がヨハネに「あなたは何者なのか」という問いになっています。ヨハネは最終的に預言者イザヤの言葉を引用し、「荒れ野で叫ぶ声」であり、水で洗礼を授けているだけの者だと答えます。

 ヨハネはやがて来たるべき方メシアが現れ、聖霊によって洗礼を授けられる。自分は、その道備えをする者、その為、水で悔い改めの洗礼を授ける者であるとの自己認識を持っていたのだと思います。

 パウロは、もともと迫害者でした。復活の主に出会い、宣教者となった初期の頃は、文字通り命を惜しまぬ伝道をなしました。その心には、迫害という取り返しのつかないことをしてしまった強い後悔、懺悔の思いがあったかも知れません。しかし、復活の主と共に宣教活動を続ける中で、晩年には、生まれる前から(ガラテヤ1:15)神のくすしき業によって、宣教者とされたのだと思うようになったのだと思います。

 今年もクリスマスの前に、自らの心にイエスさまを迎える飼い葉桶を準備して行きたいと思います。私たちも一人ひとり神さまに導かれ今日まで歩んで来ました。その内容は、人それぞれ、本当に多様だと思います。私はもともとキリスト教と無関係な環境に生まれ、中学から一応経験しましたが、ほぼ無関係が続き、しかし高校3年生のクリスマスイブに世光教会へ導かれ、クリスチャンになり、なんと牧師になって、今日に至っています。

 それぞれの時点でのイエスさまとの関係は、ほんとにいろいろですが、大切なのは、ヨハネがイエスさまの登場の時、自らを「声」とし、パウロが宣教活動を続ける中で自らを「生まれる前からの宣教者」と認識したように、今、ここにおける、自分は、イエスさまとどのような関係にあるのか、イエスさまとの関係において、自分は何者なのか、を問うことだと思います。

マリアが天使の御告げに、いろいろと思いめぐらせたように、私たち一人ひとりも、もう一度イエスさまと自分との関係を、今、ここ、の時点で、自分は何者であるのか、を心に持ちながら、アドベントの時を一日一日歩んで行きたいと思います。

2023年12月3日 アドベントⅠ(降誕前第4主日)礼拝 笹井健匡牧師


 イエスさまのされたたとえ話とは、当時の民衆がよく知っている、農業や日常の労働といったものから多くの題材を得ています。マルコによる福音書の4章には、「種」をモチーフにしたたとえ話が3つ記されています。民衆にとって「種を蒔く」ということは、自分の日常の中にある身近なことであっただろうと思います。イエスさまのたとえ話を聞くことによって、神さまは遠いところにおられる方ではなく、自分たちの生活の中に、近くにおられる方であるということを感じることができたのではないかと思います。

 イエスさまの時代の「種を蒔く人」は、できるだけ広く種が蒔かれるように腕を広げて、種を蒔いたそうです。ミレーの力強い「種まく人」の絵が思い出されます。日本では、先に土地を耕して種を蒔くということをすると思いますが、当時のパレスチナでは、種を蒔いた後に鋤をいれて土を起こすことが当たり前のことでした。道端に落ちた種、石だらけの土に落ちた種、茨の中に落ちた種は、それぞれ、鳥に食べられたり、根がはらなかったり、茨にふさがれたりで、実を結ぶことはできませんでした。「種を蒔く人」からすると、これらの種が実を結ばなかったことは、不成功であり、挫折でもあったことだと思います。またそれぞれの地に蒔かれた種は、大きく成長する可能性を持ちながらも、様々な障害のために実を結ぶことができずに無念だったのではないかと思います。しかし、良い土地に落ちた種は、芽生え、育って、実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍になったというのです。良い土地に落ちた種は、自分の可能性を十分に伸ばし、実を実らせることができたのです。無念の思いで実を結ぶことのできなかった他の種の分も頑張って大きくなって、その他の種の分も実を結んだのではないかと思います。

 自分を種にたとえると、どの土地に落ちたのだろうか、と思わされるのではないでしょうか。たとえ、悪い土地に落ちたとしても、その土地が良い土地に変えられるかもしれない、という可能性はあるかもしれません。たとえ茨の地に落ちた種であっても、石地に落ちた種であっても、種を蒔く人、農夫が、懸命に耕し、土壌を変えていくということをなしていくならば、その状態は変えられるかもしれません。

 また、種を御言葉として捉えるならば、御言葉の種を蒔くということを私たちはしていかなければなりません。今年もアドベントの時期に、クリスマスカードを近所の家々に配ることになりました。クリスマスカードという種を蒔くということをしていきたいと思います。

 蒔いた種が、道に落ちるかもしれない、石地に落ちるかもしれない、茨の中に落ちるかもしれない、そのようなあきらめはありますが、それでも、種を蒔き続け、種が良い土地に落ちることを信じて、皆で神さまからいただいた信仰の種を蒔いていく者でありたいと思います。

    2023年11月26日 降誕前第5主日 平島禎子牧師


 若い頃、信仰の影響を受けた牧師、教授の多くは、戦時下を生き抜いた人々でした。中には文字通り、九死に一生を得た人たちもありました。今で言う、サバイバーです。

 今回、モーセの生い立ち、その出生のところをいろいろと思い巡らせて、ああ、モーセも九死に一生を得た人だったのだとあらためて思いました。私自身もその出生のとき、やはり九死に一生を得た経験をしていました。

モーセが生まれた頃、イスラエルの男の赤ちゃんは、非常に厳しい状況に置かれていました。モーセの母は、何とか命を救おうと、できる限りのことをしました。その信仰と、切なる願いが神さまに届いたのだと思います。ファラオの王女が救いの手を差し伸べることになり、それが後の、出エジプトへとつながったのです。そこで活躍したのが、姉のミリアムでした。

 ミリアムは愛と、勇気と、知恵に満ちた女性でした。もしかしたらすぐ下の弟アロンの誕生の時は、助産師たちの勇気でその命を救われたのかも知れません。されに厳しくなったモーセの誕生の時、ミリアムの機転によって、モーセは命を救われ、なんと実母によって育てられ、そしてエジプト王女の子として成長していくことになりました。

 モーセの生い立ちには、母と姉の、愛と、信仰に基づく勇気があったのだと思わされます。以前、ミリアムについて詳しく語りましたので、今日は、母の方に注目したいと思います。

 それにしても最初の、母の、「ナイル河畔の葦の茂みの間に置く」という方法は、絶妙なあんばいの、これ以上ないやり方だったと思います。1章22節の「ナイル川にほうり込め」という王の命令に一応従いながらも、万に一つの望みを託して「籠を用意し、ていねいに防水し、河畔の葦の茂みの間に置いた」のです。

最期の最期まで、できる限りの努力と労を惜しまず、決してあきらめず、そして最終的には、すべてを神にゆだね、お任せしたのです。ここには地味だけれどもきらりと光る、ベテランの信仰者の姿があるように思いました。

 今、私たちは、大変厳しい世界を生きていますが、しかし長い人類の歴史の目で見れば、あるいは宇宙的視点で俯瞰して見れば、まだまだやれることはありますし、もっともっと祈りを熱くしていかなければと思わされます。厳しい過酷な状況にある人たちに愛と平和を祈り続けて行きたいと思います。

 

    2023年11月19日 降誕前第6主日礼拝 笹井健匡牧師


 アブラハムになされた「神の約束」とは、この世の常識からすると考えられないようなことでした。アブラハムの子孫が数えられない星の数のように増えるのだ、という約束は、アブラハムの身に起こるはずのない出来事でした。19節には「そのころ彼は、およそ百歳になっていて、既に自分の体が衰えており、そして妻のサラの体も子を宿せないと知りながらも」と記されています。アブラハムと妻サラに、子どもが生まれることは不可能な状態でした。しかし、アブラハムは神を信じたのです。この世的に不可能に思えることも神さまは実現してくださるのだという信仰を持つことができたのです。また、神さまは、17節に記されている「死者に命を与え、存在していないものを呼び出して存在させる神」であります。口語訳聖書では、「死人を生かし、無から有を呼び出される神」と訳されています。無から有を呼び出すということ、何もないところに形あるものを造り出す力を神さまは持たれています。何もない、誰もいない、そのようなところに、必要なもの、必要な人を生じさせて下さるのです。

 パウロは、「わたしたちの主イエスを死者の中から復活させた方を信じれば、わたしたちも義と認められます。」(24節)と言っています。復活とは人間の思いでは、信じられない出来事です。クリスチャン以外の人たちは、あり得ないと思っているでしょう。しかし、私たちは、その出来事を信じているのです。私たちの罪のためにイエスさまは十字架に引き渡され、黄泉に降り、三日目に死人の中から甦られたのです。罪の意識、苦しみ、絶望は、復活の出来事によって、感謝、喜び、希望へと変えられたのです。神さまは「死者に命を与えられた」(17節)のです。私たち一人一人がクリスチャンになったということもまた、無から有が生み出された出来事であり、「神の約束」の成就であるのかもしれません。

 「神の約束」は、私たち一人一人にも与えられています。神がアブラハムに子孫が星の数のようになる、と約束されたように、私たちクリスチャンの数も星の数のようになるということを信じたいと思います。そして、その星たちは、神の愛を示す星たちです。現在、世界で戦争が起きています。悲惨な状況の中に置かれている人々が大勢います。それらの人たちのことを思い、それらの人たちのために働いておられる人たちがいます。私たちは無力かもしれませんが、平和を願うことはできます。幾千万の星々が平和を願うなら、それは叶えられるのではないでしょうか。私たちは「無から有を生じさせる」神さまを信じ、イエスさまの十字架と復活の出来事を信じ、夜空を照らす星の一つとして、この暗い世界を照らしていく、そのような存在となれるよう、祈る者でありたいと思います。

 

     2023年11月12日 降誕前第7主日 平島禎子牧師


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