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 今年もこうしてご遺族の皆さんと共に、聖徒の日・召天者記念礼拝をささげることができることを心から感謝いたします。また児島教会の、このひとまわりは、幸いにも新しいお写真がここに加わることはありませんでした。感謝です。

 しかし個人的には、親しい方々を天に送られた方もおられるのではないかと思います。私自身も、連れ合いの平島禎子牧師の父を1月に天に送りました。また不思議な事に、その二日後には30年来の知り合いだった牧師が天に帰られました。また7月には、お二人の既知の牧師が天に帰られました。

 今日の聖書には、「おびただしい証人の群れ」という言葉が出て来ます。旧約時代のたくさんの信仰者たちが念頭にあります。「おびただしい」と訳されている言葉には、もともと「雲」という意味があります。他の聖書では「雲のように多くの」等に訳されています。

 宮田教会(福岡県)時代、一番の長老の女性がよく口にされていた言葉が思い出されます。

“先に天に帰られた方々が、「今日はどの雲のベッドで寝ようかねえ、あの雲にしようか、この雲にしようか」、と言っておられるように思います。”

助産師として多くの出産に立ち会われ、晩年は毎日のように畑を耕しておられました。雲を見ながら、天の故郷に思いを馳せながら、人生の晩年を生きておられたのだと思います。

ここに44名の召天者のお写真があります。聖書が記す旧約の証人と共に、また個人的に関係のある多くの証人と共に、この児島教会の、イエス・キリストの証人です。証人という言葉は、信仰の歴史の中でさらなる重みを増し、殉教者という意味合いを持つようになりました。

この手紙を受け取った信仰者たちは、わりと恵まれた時代に生きていました。それでも「気力を失い疲れ果てて」しまいそうになっていました。どこか私たちと似ているのかも知れません。著者は、そのような者こそ、しっかりとイエスを見つめるように教えるのです。

信仰の対象であるイエスをしっかりと見つめながら、そしてそのイエスを信じ、証人として生きた雲のように多くの信仰の先達たちの群れを心に抱きながら、それぞれの人生を、定められた時まで、精一杯に生きて行く者でありたいと思います。

 

2024年11月3日 聖徒の日・召天者記念礼拝 笹井健匡牧師


 教会の暦も降誕前となりました。クリスマスの灯がかすかに見えるようになり、その足音もかすかに聞こえてきています。マタイによる福音書では、イエスさまが「インマヌエル」、「神は我々と共におられる」方としてお生まれになることが言われています。イエスさまは、大工として働かれた後、30歳頃から宣教活動をされます。その活動は、社会の底辺にいる人達へ向けてなされたものでした。讃美歌280番にありますように、「しいたげられしひとをたずね、友なきものの友と」なられた方であります。

 ヨハネの黙示録21章3,4節には、次のように記されています。「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」慰めに満ちた聖句です。神さまが人と共に住んでくださる、そして私たちの涙をことごとくぬぐい取ってくださるのです。この箇所は葬儀の時によく読まれる箇所でもあります。自分と共に生活をしてきた人、家族、また、友人、師と仰ぐ人、自分の大切な人が亡くなると、悲しみと寂しさと喪失感を感じます。涙することもあります。しかし、そのような中にあって、人は神から慰めを受けることができるのです。神は人の目の涙をことごとく拭い去ってくださるのです。なんという慰めでしょう。泣いている人よ、悲しみなさい、あなたの涙を私がぬぐおうと、神さまはそばにいて、慰め、励ましてくださるのではないでしょうか。

 私たちの信じる神は共におられる神です。私たちと共に神さまはおられるのです。孤独の中にある時、一人ぼっちだと感じることはないのです。神が共におられるからです。また、その同じ神を信じる友もいます。教会の群れは、共にある群れです。一つの部分が喜べば、すべての部分も喜び、一つの部分が苦しめば、すべての部分も苦しむのです。決して一人ではありません。教会は共におられる神さまを信じる共にある共同体なのです。

 共におられる神を信じ、心強くされ、神の民としてこの地上での歩みをなしていく者でありたいと思います。そして、インマヌエルの主イエスの誕生を待ち望んでいく者でありたいと思います。


   2024年10月27日 降誕前第9主日 平島禎子牧師


 長い聖霊降臨節の最後の主日を迎えました。教会歴は、次週よりいよいよ降誕前に入ります。遠くにクリスマスを見据えながら、聖霊降臨節、つまり教会の時を思い返したいと思います。

 今日の聖書は、使徒言行録の最後のところです。荒海を越えて、ローマに到着したパウロの様子を記して使徒言行録は幕を閉じます。23~28節は、パウロの宿舎での、ユダヤ人との2回目のやりとりが記されています。長い時間をかけて聖書を用いてイエスについて説得しますが、ユダヤ人たちの反応は信じる者と信じない者に分かれました。そこでパウロは最後にイザヤ書を引用して福音が異邦人に向けられたと語りました。(もちろんパウロはユダヤ人のつまずきは一時的で、異邦人の救いの為であり、異邦人全体が救われれば最後にイスラエル全体も救われると信じていました(ローマ11:25~32)。)

 ここで注目すべきは、預言者イザヤを通して語ったのは、実は聖霊だと言うことです(25節)。聖霊と言うと、新約の三位一体の神を思い浮かべますが、実際には旧約の時代から預言者、士師、その他の人々を通して語り、働いて来ていたのです。それがヨエルの預言にあるように、ペンテコステを経て、あらゆる人々に、一般の信仰者に広がりました。

 ルカは使徒言行録の前半をペトロを中心に、そして後半をパウロを中心に記していますが、それは決して代表的な信仰者の「人」を描き、その伝記のようなものを記したのではありません。あくまでその「人」を通して働かれた、聖霊を記したのです。

 以前の口語訳聖書では使徒言行録は、使徒行伝となっていました。そのときよく言われたのが、使徒行伝は決して有名な使徒たちの働きの記録ではなく、聖霊の働きの記録であり、その意味では「聖霊行伝」と呼ぶのがより正確だというものでした。

 ルカがパウロの最後を記さなかったのも、聖霊の働きはこれからも続き、今度は今を生きている自分たち(ルカを含む)を通して働かれる、そしてずーっと受け継がれて行くことを示したかったからだと思います。

 ここにいます私たちも、その聖霊の働きを担って生きているのです。その豊かな導きと守りを信じて、信仰の歩みを共に祈り合い、励まし合いながら進めて行く者でありたいと思います。

 

2024年10月20日 聖霊降臨節第23主日礼拝 笹井健匡牧師


 「天上の友」という本があります。そこには、私の恩師二人のことも記されています。恩師の一人である乃美尚敏牧師と出会ったのは乃美牧師の最後の牧会の地である福岡警固教会でした。牧師としての最後の6年間のお働きでした。乃美牧師は、長崎、大分、福岡の地で伝道牧会に従事されました。特に大分では17年間もの長きにわたるお働きをされました。「天上の友第四編」の乃美牧師の頁を見て、人生は旅路であるのだなーと思わされたことでした。

 私は出身が福岡で、京都の大学へ行き、教会は、福岡、愛媛、岡山と点々としてきましたが、どの地もなつかしい故郷であると思っています。岡山の地を離れた後は、岡山がまた故郷となるのだろうな、と思わされます。人には地上での故郷があります。しかし、いわゆる地上の故郷とキリスト者の故郷とは異なっています。キリスト者は地上では「よそ者であり、仮住まいの者である」ことが11章13節に記されています。この地上が私たちの全てではないのです。私たちには地上の故郷がありますが、その地上の故郷にまさった故郷、「天の故郷」というものが存在するのです。神さまは、私たちのために「都」を準備してくださっているのです(16節)。私たちの帰る本当の故郷は「天の故郷」です。地上でのからみつく罪を脱ぎ捨て、天を仰いで生きていくことが大切なのではないかと思います。しかし、この世のことをおざなりにしていいということではありません。この世で「望み」と「見えない事実」を持ちつつ、前を向いて歩いていくことが大事ではないかと思います。

 私たちには、「天の故郷」があります。「天の故郷」は遠い昔から変わらずに存在します。そして故郷というからには、私たちは以前すでに「天の故郷」にいた、と言えるのではないでしょうか。そして、この世の人生の歩みを歩みきったならば、再び「天の故郷」へ帰ることができるのではないかと思います。天に帰る、「帰天」という言葉が使われることがありますが、私たちは、「天の故郷」に帰るためにこの地上での旅路を歩み、この地上で様々な経験をし、信仰をもって生きていくのであると思います。そして「天の故郷」に帰った時、天上の友たちと再会することができると信じています。

 全国的に見ても、教会に来る人の数は減っています。児島教会も大変少数の群れとなってしまいました。しかし、この地上において小さな群れであったとしても、天には雲のように大勢の証人たちがいるのだということを覚えなければならないと思います。先に天に帰られた人たちの地上での歩みを思い起こし、その信仰の歩みを私たちの現在を生きる力となしていくことが大切なのであり、天を見上げつつ、この地上において、それぞれの信仰生活をなしていくと共に、伝道に励んでいかなければならないと思います。天上の友たちもまた教会に臨んでおられることを信じ、イエスさまを中心とした、神さまに喜ばれ、聖霊に満ち溢れる教会として成長することができるよう、祈る者でありたいと思います。

    2024年10月13日 聖霊降臨節第22主日 平島禎子牧師


 子どものころ、たくさんの「昔話」を聞きました。おじいさん、おばあさんが登場するものが多いですが、動物もよく登場しました。今では、日常的な関りがあまりなくなった動物も多いです。うさぎが登場するものもありました。因幡の白兎やうさぎとかめ、両方ともうさぎはマイナスのイメージで登場します。

 今回、今日の聖書をあらためて読んで見て、どういうわけか、泥船のイメージが浮かび、ああそうだ、かちかち山だと思い出しました。うさぎが仇討ちをしたヒーローのように描かれています。

 パウロの忠告(10節)を聞かなかったために、ついに船は難破してしまいます。パウロにも命の危機(42節)が迫りますが、百人隊長ユリウス(1、43節)によって助けられて、それどころか全員の命が助かったのです(22節)。天使のみ告げ(23節)があり、必ずローマに着くことを、信仰を持って確信していたからに他なりません。しかしここには書かれていないパウロの経験があったからこそ、パウロは冷静に落ち着いていられたのかも知れません。

 コリント二11:16~33には、パウロの苦難が、これでもか、というほど記されています。中でも25節には、3度の難船と、一昼夜海上に漂ったことが記されています。パウロの時代、地中海の航海は発達していましたが、しかしそれは現代とは違い、遥かに危険な、文字通り命がけのものでした。パウロは何度もその危機を、神さまに救われて、このローマ途上にいるのです。

 教会はよく船に例えられますが、ガリラヤ湖上のイエスさまと一緒の弟子たちに自分たちを重ねますが、地中海上のパウロと一緒の方に自分を置くと、それはそれは恐ろしいと思います。しかしこの船には、著者のルカ(1節以下)、それにアリスタルコ(2節)も一緒にいたのです。信仰者が3人集まっていたのです。そこにはイエスさまも一緒におられたのです(マタイ18:20)。

 私たちも、人生の歩みの中で、信仰の歩みの中で、今日の聖書のような危機的な状況に出会うこともあるかも知れません。もちろん、船は大事です。物理的な建物としての教会も、とっても大事です。泥船ではすぐ沈んでしまいます。しかし最も大事なものは、その船に乗っている者たちであり、そこに信仰と希望と愛があるなら、イエスさまが共におられるのなら、必ずや皆の者が救われるのです。一緒に生きている、共に船に乗っているすべての者が、全員が無事に、目指すところへたどり着くことができるのです。神さまの導きと救いを信じて、最後までこの世の荒波を共に進み行く者でありたいと思います。

2024年10月6日 聖霊降臨節第21主日礼拝 笹井健匡牧師


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