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「宣教」  マルコによる福音書1章35~39節

 私たち人間は、人生の大切な節目にあるとき、自分を超えた、「なにか」に、その答えを求めようとするものではないかと思います。私たち信仰者にとってそれは、神に祈ることに他ならないと思います。
 今日の聖書の冒頭で、イエスさまは祈っておられました。ユダヤ教の会堂において「権威ある新しい教え」をされ、汚れた霊を追い出し、その後、ペトロとアンデレの家で、多くの悪霊を追い出し、病を癒されました。そこに居れば、おのずと多くの人々がやって来ることは自明のことでした。そこに居続けて、宣教する、という道もあったと思います。しかしイエスさまが神さまから与えられた答えは違うものでした。それはより大変な道、と言えるかもしれません。
 「みんな捜しています」という弟子たちの言葉に対して、イエスさまは「分かった。今みんなのところへ帰るから」とは言われませんでした。そうではなく「ほかの町や村へ行こう。」と言われたのです。これを聞いた弟子たちはどう思ったでしょうか。せっかく、ペトロの家で大きな成果をあげたのだから、ここにいるのがいい、と思ったかも知れません。ここにいてカファルナウムのいろんなところに宣教するのがいいと、私も思ってしまいます。しかしイエスさまはあえて新しい町や村へ行き、何の保証もないところで、宣教をすると言われたのです。そしてそれこそが、ご自身の使命だと言われました。
 後に誕生した教会も、初めは信徒たちやパウロのような伝道者たちが多くの地域を巡って伝道をして行ったのです。そのことによって各地に教会が誕生して行きました。私たちが読む新約聖書の大半は、そうした教会の、草創期の様子を伝えています。
 転じて、私たちは2000年という歴史を持つ、世界宗教としての、言わば制度化された教会において信仰生活を送っています。そんな私たちにとっては、地域に根を張って宣教することが大切です。
 今日の聖書は、私たちに宣教の根源的なもの、を教えてくれます。ひとつは、宣教は人の業ではなく、神の業であるということ。イエスさまですら、神に祈り、そして示された道を歩まれたのです。もうひとつは、まだイエスさまを知らない人々に、何とかして伝えて行く、という心の姿勢を常に持ち続けること。
 人の思い、勝手な判断によって、神の業を決して妨げることがないように、常に祈りながら、共に信仰の道を歩んで行きたいと思います。

2018年7月15日 聖霊降臨節第9主日礼拝 笹井健匡牧師(平島牧師の代理)

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