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「イエスの教会」 マタイいによる福音書16章13~20節

説教題「イエスの教会」 マタイによる福音書16章13~20節

 

 長い降誕節を終え、受難節に入りました。世界を取り巻く状況も混迷を深めています。しかしそのような時だからこそ、私たちは十字架へと歩まれるイエスさまから生きる力をいただきたいと切に願います。

 今日の聖書は、第1回目の受難予告の前に、ペトロが信仰告白をした場面です。まず、イエスさまは弟子たちに対して、ご自身の評判を尋ねられます。人々は、イエスさまのことを、誰だと言っているのか、と。エレミヤを加えて、マルコ福音書と同じような答えが記されています。そのうえで、それではあなたたちは、と弟子たちに問われた時、ペトロがはっきりとメシア(キリスト)と信仰を言い表すのです。20節の「話すな」という禁止命令は、マルコ福音書では、不十分なメシア理解を戒められた言葉だと思われます。しかしマタイは、そこに17~19節のイエスさまの、お褒めの言葉を挿入しました。

 「違い」にとらわれると、大事なものを見落としてしまうことがあります。富士山のたとえのように、見る場所、季節、人によってその姿は大きく異なるのです。イエスさまを取り巻く人が、いかに大勢だったか、ということです。

 カトリックではペトロに焦点が当てられ、教皇、法王の聖書的根拠のようにも扱われがちですが、プロテスタントの私たちにとってはどうでしょうか。失敗多く、欠けの多い漁師、しかしイエスさまへの思いだけはだれにも負けないという、そんなペトロの熱い心をイエスさまは「良し」とされ、その上に教会を建てると言われたのかも知れません。

 今回私がさらに示されたのは、イエスさまが「わたしの」教会と言われた点です。他のだれの教会でもない、イエスさまの教会、それが教会なのです。

 旧約の時代、シナゴーグは存在していましたが、人々の心は「主の家」としての神殿に在りました。その「祈りの家」を、イエスさまは教会とされたのです。そして各地に広まりました。そしてそこが「救いの場」「祈りの場」となったのです。

 教会はイエスさまの「場」です。どこかにある「神殿」のような場所に行かなくてもいいのです。信仰によって教会が建てられるとき、そこにイエスさまはおられるのです。

 イエスの教会に連なり、救われた人生を歩む者として、この受難節の時、克己の生活をなして行く者でありたいと思います。

 

            2022年3月6日 受難節第1(復活前第6)主日礼拝 笹井健匡牧師


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