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「愛の交わり」  フィレモンへの手紙8~16節

 私が教会に行きだした頃、よく聞いた言葉に「主にある交わり」という言葉があります。週報の礼拝順序の最後は「交わり」でした。各グループに分かれて、高校生会、青年会等で昼食を共にし、「証し」等、いろんな話をする時間がありました。第3日曜日は、縦割りにした「ファミリー」に分かれ、年齢性別を超えた交わりの時を持ちました。
 教会は、2000年前の誕生の時から、礼拝と共に、「主にある交わり」を大切にして来ました。1部の礼拝が終わったあと、2部の愛餐の時があり、その初めに「聖餐式」をしていたように考えられています。
 おそらく礼拝において神を賛美し、その後主イエスの最後の晩餐を覚え、そこで、主イエスの愛に包まれた交わりをなしていたのではないかと思います。
 今日の聖書は、詳細はわかりませんが、パウロが獄中でオネシモという信徒を得たことが記されています。オネシモはフィレモンの奴隷でした。フィレモンに関しても詳細は不明ですが、2節には、フィレモンの家の教会が言及されています。おそらく熱心な信仰者で、その地域のリーダー的存在だったのではないかと思います。また奴隷をもっていたことから経済的にも裕福であったと思われます。そして、信仰者として良き働きをしていたことが手紙の端々からうかがえます。
 そんなフィレモンに対してパウロはオネシモを、奴隷ではなく、愛する兄弟として迎えてほしいと願うのです。身分、階級が厳然としていた古代社会でした。ふつうでは、ありえないことなのですが、同じ主イエスを信じる者として、とパウロは願うのです。ここには当時のクリスチャンたちが、主イエスを信じることによって、その愛の交わりの中で生きていたことの片鱗が見てとれる気がします。つまり、愛の交わりが、世の在り方を突き抜けていることが感じられるのです。
 私たちが生きている社会は、もっと自由な社会です。本来は信仰によってもっと豊かな愛の交わりを実現することができるのだと思いますが、なかなか言うは易く行うは難し、です。
 私たちのことをこよなく愛してくださっている主イエスをもう一度しっかりとみつめ、そして神が愛であり、私たちも互いに愛し合うことを何よりも望んでおられることを思い、愛の交わりを探していく者でありたいと思います。

2018年7月29日 聖霊降臨節第11主日礼拝 笹井健匡牧師

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