8月20日(月)~22日(水)まで平島禎子牧師の実家のある福岡に帰省して来ました。年に一度、特に4年前義弟が亡くなってからは、お墓参りをかねたものとなっています。また、前々任地の教会も(福岡に)あります。
私は京都が故郷ですが、大阪も中高時代、社会人時代を過ごしたところであり、いわゆる「伝道師」時代と前任地の愛媛、そして現在の児島(と新見)の岡山と、2府3県が「帰ろうかな」と思える故郷のようなものになっています。
今日の聖書は、いわゆる「第3イザヤ」と呼ばれている預言書です。一般に預言書、旧約聖書というと、厳しい、裁きの神、というイメージが強いですが、今日のところは非常に愛に満ちた神の姿が描かれているように思います。イスラエルの民の、つまり人間の苦難を「常に」「自分の」苦難として「救い」「贖い」「負い」
「担って」くださったのが主なる神であると言うのです。ここに表わされているのは、数百年後に登場されるイエスさまの姿そのものだと思います。
もともと神は、愛の神だったのです。それを厳しい、裁きの神としたのは、私たち人間でした。人間が、その悪い思い、神に背く歩みによって、神を怒らせ、裁きをもたらしたのだと、あらためて思わされます。
イエスさまは、もう一度、自らの生きざま、そして死にざまを通して、本来の神の姿を私たちに示してくださった、と言えるのかも知れません。そのイエスさまの思いを思い起こし、そしてその神さまのもとに帰ることが大事だと思います。
帰ることができる場所、帰るべきところを持っている人間は幸いです。特に苦しい状況に置かれたとき、大きな悲しみを経験したとき、人はまるで母の胎内に帰るごとく、帰りたいどこかへ帰ろうとするものなのかも知れません。帰巣本能なのかもしれません。
私たちの帰るところ、帰ろうかな、と思うところは天の神さまのところです。この世に生きているときは、いろいろな土地、場所が思い浮かびますが、究極的には、天にある故郷に帰るのです。
やがて時がきたら、天に、神さまの御許に「帰ろうかな」、しかしそれまではもう少しこの地上でがんばって、聖霊の導きのままに、神さまを信じ、イエスさまに従って信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。
2018年8月26日 聖霊降臨節第15主日 笹井健匡牧師
私は京都が故郷ですが、大阪も中高時代、社会人時代を過ごしたところであり、いわゆる「伝道師」時代と前任地の愛媛、そして現在の児島(と新見)の岡山と、2府3県が「帰ろうかな」と思える故郷のようなものになっています。
今日の聖書は、いわゆる「第3イザヤ」と呼ばれている預言書です。一般に預言書、旧約聖書というと、厳しい、裁きの神、というイメージが強いですが、今日のところは非常に愛に満ちた神の姿が描かれているように思います。イスラエルの民の、つまり人間の苦難を「常に」「自分の」苦難として「救い」「贖い」「負い」
「担って」くださったのが主なる神であると言うのです。ここに表わされているのは、数百年後に登場されるイエスさまの姿そのものだと思います。
もともと神は、愛の神だったのです。それを厳しい、裁きの神としたのは、私たち人間でした。人間が、その悪い思い、神に背く歩みによって、神を怒らせ、裁きをもたらしたのだと、あらためて思わされます。
イエスさまは、もう一度、自らの生きざま、そして死にざまを通して、本来の神の姿を私たちに示してくださった、と言えるのかも知れません。そのイエスさまの思いを思い起こし、そしてその神さまのもとに帰ることが大事だと思います。
帰ることができる場所、帰るべきところを持っている人間は幸いです。特に苦しい状況に置かれたとき、大きな悲しみを経験したとき、人はまるで母の胎内に帰るごとく、帰りたいどこかへ帰ろうとするものなのかも知れません。帰巣本能なのかもしれません。
私たちの帰るところ、帰ろうかな、と思うところは天の神さまのところです。この世に生きているときは、いろいろな土地、場所が思い浮かびますが、究極的には、天にある故郷に帰るのです。
やがて時がきたら、天に、神さまの御許に「帰ろうかな」、しかしそれまではもう少しこの地上でがんばって、聖霊の導きのままに、神さまを信じ、イエスさまに従って信仰の歩みをすすめて行きたいと思います。
2018年8月26日 聖霊降臨節第15主日 笹井健匡牧師
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